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家光大奥 中の丸の生涯 高ヒット
2017/3/7 14:27 投稿者: manager (記事一覧) [ 1456hit ]

家光大奥・中の丸の生涯
狩野探幽と尽くした徳川太平の世

 

著 者 遠藤 和子
発 行    小石川ユニット

発 売 株式会社 展望社

編 集    赤羽高樹
装 丁    田中等
パブリシティ・制作    デルタネットデザイン 新井満
印刷・製本    日本ハイコム 株式会社

 

はじめに──真実を求めて

戦国武将・佐々成政は、主家・織田氏への信義を重んじた誠忠の人である。小牧・長久手の戦いで、諸将が豊臣秀吉になびくなか、織田信長遺児・信雄を立てた徳川方に味方した。このため、秀吉に攻められて降伏し、肥後に国替えとなるも、国衆(人)一揆が勃発。秀吉に切腹を命ぜられ、五三歳の生涯を閉じた。
一方、越中国主として、百年余りも続いていた国内の争乱を鎮め、善政をしいた。四百二十年後の今日もなお、民政家・成政の名は、越中の人びとの心に深く根づいている。

佐々成政研究が一段落した平成初年、京都に成政の供養寺・慈眼寺(上京区出水通七本松)が存在していることを知った。成政正室・慈光院が夫の切腹後(一五八八年)、慈眼庵を建立。娘・岳星院(鷹司信房室)を経て、寛文三年(一六六三)、孫娘・孝子によって現在地に再建されたという。
この慈眼寺を訪ねたことが機縁となり、成政の孫・孝子について取り組むことになった。徳川家光夫人となった女性である。
黙殺された将軍正室
徳川三代将軍・家光の正室は、鷹司信房夫妻の息女・孝子。摂関家出身の姫君が将軍夫人となった最初に当たる。以後、将軍夫人は朝廷から迎えることが恒例となった。しかしながら、孝子は御台所と呼ばれず、「中の丸」殿として通った。
また、歴代の将軍夫人は、いずれも徳川霊廟(増上寺、寛永寺)に埋葬されている。そうしたなかで、中の丸の墓碑は、家康生母・お大(伝通院)の菩提寺・伝通院(東京都文京区小石川)境内の一隅に、ひっそりと建っている。位記にしても、歴代の将軍夫人は従一位、もしくは従二位を叙任している。中の丸は、没して八十九年後(一七六三)にして、従一位が贈られた。それまでは無位無冠であった。
没したのは、四代将軍・家綱時代の延宝二年(一六七四)六月八日。「徳川実紀」には、「当代(家綱)御嫡母にも、たたせたまわねば、御服(喪)もなし」と記されている。
「家光時代は御台所と呼ばれず、家綱時代も黙殺されていた」
なぜ、このような冷たい仕打ちを受けたのであろうか。

東照大権現祝詞
寛永一七年(一六四〇)八月下旬、春日局は上洛した帰途、日光山東照社に立ち寄り、「東照大権現祝詞」を奉納した。
祝詞には、家光が家康から受けた冥加(お助け)について述べられている。ついで、秀忠夫妻や、弟の忠長、中の丸が「家康の神罰を受けた」として、つぎの言葉で締めくくっている。
「家光を軽んじ、疎かに思った者たちは、いずれも自滅した」
かりそめにも主家の人びとである。言挙げするにも程がある。ことに、中の丸に対する言葉には、瞋恚の炎が燃え立っている。

こんめい(昏迷)なければ、こころ(心)ただしからず。こころただしからざれば、き(気)にさほい(相違)あり。これ、きちがい(気違い)というなり。
なかまるどの(中の丸殿)、こころただしからずして、きにさほいあり。これ、ふしぎ(不思議)のみやうばつ(冥罰)なり。これ又、ごんげん(権現)御神ばつ(罰)なり。

「心の正しくない気違い。気違いになったのは天罰。家康公の神罰によるものだ」
胸を突き刺すような峻烈な文である。まなじりを決し、怒りの炎を噴き上げている形相が浮かぶ。秀忠夫妻や忠長については、具体的に世継ぎ争いのことを挙げて非難している。だが、中の丸に対する憎悪理由は述べられていない。
何が局をして、このようにいわしめたのであろうか。

 

中の丸墓所
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著者
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