トップ  >  許浚と『東医宝鑑』

●許浚<ホジュン>

許浚<ホジュン>の出生にかんしては諸説ある。小説では、卑賤身分の妾の子となっている。『朝鮮王朝実録』による許浚<ホジュン>の説明を、以下参考に紹介したい。
彼は1546年、金浦で武人の息子として生まれたが武科に応試しないで、29歳で雑科の医科に合格し,医官として内医院に奉職するようになる。以後、内医の太医御医として名声がたかかった。太医院は宮中の医務室を管理しており、御医はその医師のことである。

東洋医学を集大成した『東医宝鑑』を著して、朝鮮医学の優秀さを清、日本に示した。

医科に合格して以来、彼は1575年2月に御医として明の安光翼とともに、王を診察する入診として実力を証明し、1581年に高陽生の『纂図脈訣』を校訂して、『纂図方論脈訣集成』四巻を編集することで、脈法診断の原理を明らかにした。
以後彼は御医として活躍しながら、多くの功績を残し、王子の痘瘡を治したため、宣祖から堂上官の官職を得た。そして、壬辰倭乱の際は宣祖の側を離れないで義州の近くまで従ったため扈従功臣となり、その後も御医として内医院に残り、医療のすべての行政に参加しながら、王の健康を守った。
そうしているうちに、1596年、宣祖の命を受けて、鄭?、楊礼寿などとともに内医院に編集局を設置して、『東医宝鑑』を編集し始めた。しかし、その翌年、丁酉再乱が起こり、医官たちが各地に散らばったため、作業は一時中断された。
その時宣祖は再び許浚<ホジュン>に命じて、単独で医書編集の仕事をまかせ内倉書五百件余りを考証させた。彼は内医院で御医として従事しながらも編集の仕事に専念し、光海君二年の1610年に25巻25冊の『東医宝鑑』を完成させた。

この書は当時の医学のあらゆる知識を網羅した臨床医学の百科全書で、内科、外科、雑科、湯液、鍼灸編の五編で構成されている。各編ごとに病気によって項目を決め、その項目の下には該当する病論と薬法などを出典とともに細かく列挙し、各病症に関する古今の処方を一目瞭然に把握できるようにした。そして、各病症に適した薬の処方箋と鍼灸方法を付け加え、場合によっては自分の経験を記録して、見る者が実用化できるようにした。各病症の項目が症状中心に列挙され、臨床医たちが患者を診るとき、多くの本を簡単に参考にできるようになっている。
世宗時代に作られた『郷薬修正法』『医方類集』と、宣祖の時の『医林提要』、中国の『神農本草経』『素問』など八十三種の古典方書と『脈経』など漢、唐以来編集された70余種の医方書が引用されている。

 

●東医宝鑑

このように膨大な資料を基に作成された『東医宝鑑』は編集力と著述能力の優秀性により東洋医学の宝鑑として出版された後、日本と中国に伝えられ、今日に至るまで貴重な漢方臨床医学書としてその地位をたもっている。韓国人の著作としてこの書ほど中国、日本人に広く読まれた書はおそらくないだろう。
『東医宝鑑」の公刊は、朝鮮本国はもとより、日本、そして漢方の"本家"中国にも多大な影響を与えてきた。日本では、1662年に江戸幕府が使節団を朝鮮に派遣した折に同書を求めており、それをもとに1724年、京都書林より、出版され、続いて1799年、1984年にも本書が刊行されている。


許浚<ホジュン>は、この書を完成させた後も、世宗時代に編纂された『救急法』を『諺解救急法』として注解し、任元濬の『瘡診集』をハングル訳して『痘瘡診集』とし、また、盧重礼の『胎産要録』もハングル訳して『諺解胎産集要』としてそれぞれ刊行し、当時、流行した伝染病を予防するため『神纂辟瘟方』と『辟疫神方』を編集して配布したりもした。

許浚像

許浚の書

東医宝鑑

 
カテゴリートップ
TOP
次
8種の医者、33種の水