トップ  >  『許浚』刊行の経緯 朴菖熙

粗訳が出来あがったころ

 

初版があって1年余りで、この7月(2004年)、『許浚』上・下(原作・李恩成)は重版の運びとなった。より多くの読者を迎えたのである。訳者として、うれしいかぎりである。

つい、本書の訳出初期が顧みられ、故豊島哲先生のおなつかしいお姿が偲ばれる。

91年の春当時、ソウルの韓国外国語大学にて、わたくしは十数年来、韓国の歴史・思想、そして韓日関係史の講座を受けもっていたが、本書の原作『小説東医宝鑑』(上中下・創作批評社)の日本語訳を手がけていた(これについては、本書下巻の訳者あとがきでやや詳しく述べたのでご参照いただきたい)。
2、3年のうちに脱稿を果たす心構えで、なんとか時間を稼いでは自己流に翻訳をすすめていた。93年夏頃には、粗訳ながらかなりはかどっていた。もとより、わたくしとしても、原著者の精神(オル)を深くとらえながら、原文を正確に読みとり、これを読みやすく、しかも的確に訳すことを目指していた。
しかし、自ら読み直してみても直訳すぎる部分が気にさわり、日本語表現としては首をかしげざるを得ない部分が多く目についた。誰かに訳稿の修訂を賜り、わたくし自身ハッと気づく自己警告の経験をもちたい。一段高い眼識と、もっと新鮮な文章感覚でもって訳出できれば……。この願いが切実な時だった。

 

豊島先生との出会い

 

その頃ちょうど、豊島哲先生がソウルに来られることになった。それも、日常的に机を並べる間柄としてであった。93年、先生は上智大学の教授としてサバティカル・イヤーの年で、5月から8月はワシントンの国立公文書館のスーツランド支所にて松代大本営の資料閲覧や収集にあたられ、9月から半年はソウルにおいでになられたのである。

当時、わたくしは外大附設史学研究所長に任ぜられていたために、先生のご希望を受けて、所長名義で豊島先生をご招請できた。
実は、豊島先生とは数年前よりすでに、松代大本営、韓日間の歴史精算問題について、共に考えあい、協力しあう友人・同僚として信頼しあっていた。外大の学生たちや報道関係者と連れだって松代を訪問すれば、必ず先生にご相談して事を運んでいた。ソウルでの松代展示会開催の場合でも、細かいことまでご助言をいただいたものだ。
ところで、わたくしにとって豊島先生がお待ちしていた賓客であったのは、『小説東医宝鑑』の粗訳原稿のご批評をいただけるからでもあった。先生は、翻訳分野の先達でもあられた(訳書にマイケル・シャラー『マッカーサーの時代』96年・恒文社、ストゥーク『朝鮮戦争』99年・明石書店などがある)。そして何よりも先生は、韓日関係の諸問題について深く考えられ、研究をとおして、その良きあり方のため尽力されていた。

粗訳をみていただく

 

わたくしは、『小説東医宝鑑』のストーリーや、原著者のお人柄、この小説が300万部まで売られ、この作品に国民的に魅入られている韓国社会について、また原著者の他の書作品の内容と諸特徴について、時間をかけて語りあった。
豊島先生は、わたくしの話しに深い関心を示された。そして、わたくしの訳稿を下宿先へお持ち帰りになり、ご丁寧に朱筆を入れてくださった。それは何ヵ月にも及び、徹夜もまじえての日々であった。ご友情に心から感謝した。
日本語の正確な表記や微妙な日本語表現法についての、先生のこまかいところまでのご指摘は、わたくしにとってきわめて新鮮であった。日本語の特性について、はじめて気づかされるなど、わたくしは啓発された。
すくなからぬ分量の訳稿についての先生の朱筆は、その後の訳出の水準を一段と高める契機になった。そして、アマチュア訳者に勇気と自信までも吹きこんでくださった。熱いご厚意を忘れることができない。
このようなことがあって以来、先生は本小説の翻訳・出版が順調に進むことをずっと見守ってくださった。
豊島先生は、これが日本全国の人々に、とくに若い人たちにドンドン読まれることを心から希っておられた。かく願う先生の内面には、日韓関係にたいする特別な問題意識がおありだったからだ、と思われる。先生は日本の一部政治家や悪質な言論人、そして非良心的な学者による韓国人やアジア人全般にたいする不当な差別的意識、優越意識に厳しく批判的だった。そして「日韓の真の和解と友好の促進」のためには、国民レベルでの歴史認識の共有こそ肝要だ、と主張されていた。そのためのご自分のお仕事として、前述の訳著などがあり、ソウルで半年間を過ごされるのも、またその作業の延長線上だといえた。この小説の日本語出版にたいする豊島先生の願いもまた、上記のような問題意識と通底していたのである。

 

『許浚』出版までの道のり

 

95年4月、わたくしは国家保安法違反の疑いで、安全企画部に連行された。ソウルの大法院で3年半の刑確定により、98年3月、金大中大統領就任で釈放されるまで、大邱の獄中にいた。豊島先生は週に1回、書信をくださるほどに、友情の熱い糸をつないでくださった。
わたくしは、豊島先生に『魯迅全集』の日本語版を拝読したいとお願いしたら、竹内好訳・筑摩書房刊・全6冊を差し入れてくださった。文章を読みながら“竹内さんの訳はいいなあ”とわたくしは感嘆した。その訳し方からも、わたくしは教えを受けた。
お手紙で、豊島先生は、日本での出版が遠のいていくことを、たいへん残念がられたが、獄中の独房で2年半あまり、集中的に全面的に推敲できたことは、皮肉なことに、訳書完成のうえで、またとない機会であった。

2001年1月、先生は急逝された。
愛するご家族を遺されて昇天された悲報に接し、ソウルでわたくしはひとり慟哭した。

本書出版までの道は易しくなかった。日本のわたくしの友人は、ワープロにされた訳稿(400字詰め原稿1700枚の分量)をかかえ、1999年、2000年の2年間、大手の出版社6ヵ所を訪ねていた。ある時は涙ながらに出版の実現を訴えていた。友人は、本書が日本全国の津々浦々で読まれることを願い、そのためには大手出版社による出版が有利だと思っていた。しかし、ダメだった。

そのわけは不思議にも6社とも共通していて、分量が多い、一冊本にはならぬため販売価格が高くつく、営業上むずかしい、韓国の作品であるため売れ行きを保証しがたい、などであった。
大手出版社は断念せざるを得なくなったころ、幸いにも2001年秋、某社がすすんで引き受けてくれた。このとき、豊島哲先生の奥様である中澤俊子氏は、訳書の上下同時出版が成るよう、出版の協力を申し出られ、やっと出版契約が成立した。ゲラは再校終了にまでこぎつけた。本の題名は、ソウルの原書名とおなじく『小説東医宝鑑』であった。
ところが、印刷直前の三校、念押しの段になって、突然、作業が中断される羽目に陥ってしまったのである。会社の厳しい経営事情のため、何もかもストップとなり、出版とやらは五里霧中に陥ってしまった。

わたくしには、もうこれで本書の出版は絶望的だ、と思えた。

 
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